原点ヒストリー

木材に囲まれ

 

昭和46年に蟹澤工務店の長男として生まれ、幼い頃から木に触れ、木の香りを感じていました。

気が付けば小学校3年生で、父と一緒に現場に行き、何もできないので道具を覚えては道具を渡すことをしていました。

 いわゆるお手子(下まわりの仕事雑用をする者)ですね。

 冬の寒さは断熱材にくるまって温まり、楽しみはお茶の時間と昼ご飯で、時間が経つのも忘れ父の手伝いをしていたものです。

 現場について行ったのは、夏休みの工作や木船などを一緒に作り遊んでくれた、今は亡き一番弟子のお兄さんがいたからです。

お兄さんは私が生まれる前から親方(一代目)と仕事をしていました。車でサファリパークや

お祭りなどに連れて行ってもらい、親より遊んでもらっていた記憶があります。

 蟹澤工務店に入り大工仕事をした時も抜群の相性と、丁寧な仕事をするので安心して頼れる兄貴で、一緒に仕事をするのが楽しかったです。

 今も丁寧な仕事にこだわるのも、お兄さんの教えがあったからだと思います。

 

ものづくりの原点プラモデル

 

小学生の頃に流行ったアニメ機動戦士ガンダム。

 プラモデルが発売されるものの入手困難な程の大人気!

 当時カップ焼きそばUFOの応募景品で1/100のガンダムが当たり、喜んで作って戦いシーンを再現したジオラマ撮影までしていました。

 この頃からパーツが無い物は自分で作り気に入るまで作り直すこだわりぶりは健在。

 ガンダムから家へと造るものは変わりましたが、私のものづくりの姿勢はこの時から変わっていないなと、今振り返っても思います。

建築への道

 

時は流れて中高校生位になっても、相変わらず家づくりが好きな私は、父に着いて現場へ行きました。

 この頃になると多少は父を手伝える様になり、断熱材を入れたり、釘を打ったりしたので、ますます時間が経つのが早く感じたものです。

 中学校では高校の進路について決めなければならず、この時点で既に建築の道に進むことは決めていたので、何も迷わず建築の高校に行く希望を出したのですが、その高校は学力レベルが高く、自分が受かるか不安でいっぱいでした。

 そんな時、進路の三者面談で先生が普通高校から建築の大学へ進めば将来は「左団扇」で暮らせると教えてくださり、建築系の高校には行かず、普通高校から建築系の大学に行くことを決めました。

大学では、石川県金沢の「ひがし茶屋街」の街並みの木のデザインを、調査した時をきっかけに、さらに木造に興味をもちはじめ、木造建築の仕事に就くことを決意しました。

大量生産と一級建築士取得

 

無事に首席で(はなかったですが笑)大学を卒業し、当時山梨県内でNo.1の住宅会社ムカワホームの設計に就職しました。

 入社一年目の5月、母がくも膜下出血で倒れ言葉と身体に障害を負ってしまいました。実はこの経験が私が高性能住宅にこだわる理由となっています。

実家、北杜市白州町は長野県との県境で冬は寒い地域になります。

石油ストーブとこたつで暖をとり廊下に出たら激寒で、温度差は15度以上でした。

 高血圧だった母が倒れた要因にもなっている事を勉強してわかり、ヒートショック防止の

高気密・高断熱へのこだわりの原点になっています。

 そんな母の病態に不安もあった一年目、初めての設計打合せの仕事を任されました。

 設計打ち合わせと言っても、実際は外注の設計事務所が書いたプランを基に不具合の修正と色打ち合わせを主に行う仕事で仲間内では「一級修正士」と呼び合って笑っていました。

 私が新卒で入社した当時は、年間200棟の規模でしたので数をこなす事で精一杯でした。

 学生の頃よりも毎日が瞬く間に過ぎて、追い付いて行くのが精一杯で、初めて目まぐるしい時間を感じた事を今でも覚えています。

 

そしてこの経験が、実は私が工務店を継ごうと思った一つの理由なのです。

 

それは、

 “少数建築のこだわり”です。


大手は、沢山造ることを念頭においた家づくりを提供するからこそ、沢山の人が必要となり、住まいは一棟一棟が特徴の無い大味の量産型の家になります。

スーツで例えると青木、青山のような、量産でこだわりがないスーツを販売しているイメージです。

 

それに比べて、かにざわ工務店は、町のスーツの仕立屋さんだと言えます。

つまり、お客様のご希望に合った、こだわり注文住宅を一棟一棟丹精込めて造っています。

 そうすると一年間で提供可能な棟数は限られて来るので実績は少ないのですが、その分お客様に向き合って、こだわりの家を提供できるのです。

 

一言で言うなれば、大手は数を提供しているのに対し、かにざわ工務店は質を提供していると思ってください。

 だからこそ、お客様の予算に合わせる家づくりの提供が可能なのです。

 そして、少ない棟数の提供を最初から想定した経営だからこそ、少人数で小規模経営が可能になります。

 

これは月の経費が少なくて済むので、実は最も倒産しにくい経営が当社のような小規模少人数経営なのです。

 入社2年目に一級建築士の受験資格が整い、それまで車で1時間掛けて通勤していたのを電車通勤に変え、通勤中の時間を学科勉強のための参考書を読み漁る時間に充てるなど、私の人生で一番本気な勉強をしました。

 製図の試験時にはホテルに泊まり込みむなど、それまでの人生で一番の努力をしたのですが、残念ながら製図で落ちてしまい人生で初めての挫折を味わいました。

 この時は心の底から悔しくて、当時お付き合いしていた妻の前で悔し泣きしましたが、翌年には妻のより厚いサポートもあり、無事一級建築士の資格を合格することができました。

妻も建築士と宅建の資格を取得し、仕事、子育て、家事と三役をこなし、私の夢の支えにもなってくれています。子育て、家事となると私は、ド素人なので怒られていますが、いつもかわらい感銘さには頭があがりません。

 

今は二人の設計士として、女性目線と男性目線の意見を取り入れながら、故郷となる土地、幸せのもととなる資金や間取・デザインを、お客様と共に未来予想図として描き、築いています。

 

こだわりへの道

 

その後3年間新卒で採用された会社に務めた私は、入社一年目の不安が嘘のように自信に満ち溢れ、任された仕事は誰よりも高いレベルでこなせるようになっておりました。

 人一倍こだわりが強く、当時からクオリティーを重点を置き、時に生意気を言って上司を困らせるような私を、会社は温かい目でいつも見守り、今の私のベースとなる下地を作ってくださったムカワホームには、今でも大変感謝し、有り難く思っております。

 

しかし仕事を任され覚えて行くほど、当日勤めていた会社の“流れ作業のような家づくり”に大きな違和感を覚えました。

 そこで私は、数ではなく“一棟にこだわる家づくり”を自分の生涯を通したテーマにしようと決意し、父のケガをキッカケに蟹澤工務店へ入社したのです。

 実はムカワホーム時代も、ものづくりが好きでこだわりが強い私は、自分の手を動かして家づくりをしたくて、蟹澤工務店で大工仕事を手伝っておりました。

 しかし入社1年目、加工機で右の人差し指の第一関節から先を切断してしまう重大な現場事故に見舞われてしまいました。

 人生で一番大きなケガとなった右手人差し指の切断は、私の家づくり感に大きな影響を与えました。

 

このケガは、お客様には全くわからないケガなのですが、もし万が一、現場で起こった命に関わる事故であったら、お客様の大切な資産が穢れてしまいます。

 

いままで築き上げてきた未来予想図まで、水の泡になってしまうと考えたら身震いがする思いでした。

 

この出来事が私の考えを一新する事につながり、品質と技術にこだわるだけではなく、足場の作業のし易さ、落下の危険性などを週に3回現場を回ってチェックを実施しています。

 注意事項などは事前報告をする事で職人さんが安心して仕事が出来る環境を整え、目に見えないお客様の資産の質にもこだわっています。

 大手では決して出来ない小規模&少棟数減築だからこそ出来る現場管理体制なのです。

 

その後は大きなケガもなく大工、設計、見積、打ち合わせをこなし、順調に自分が掲げたテーマの家づくりをすべく働きました。

 

しかし何度も書いて恐縮ですが、こだわりが強い設計上がりの私には、図面での計算の数字と、手刻みをする事で生まれる現場での加工ミスによる誤差がゆるせなく、親方(一代目)と衝突していました。

 その後、私と親方の間に入り仲を取り持ってくれていた一番弟子のお兄さんがガンで他界し、親方と二人での仕事になり、ますます険悪な関係に…。

しかしある日、点検でオーナー様のお宅に訪問した時のことです。

 

「何も不具合がなく、快適に過ごしているよ。しっかり造ってもらって良かった。」と話したのを聞いた時、間違いや誤差も大切だけど、しっかり造ることの大切さが理解できました。

親方のいつも言っていた「そんなんじゃダメだ、手間を惜しむな」の言葉が胸に突き刺さり、この日を境に親方と分かり合え、お兄さんがいない分もより一層仕事に励みました。

 

お兄さんが注意してくれた事や、間に入って気遣ってくれた事のありがたみが、身に染みてわかり改めて存在の大きさに気付きました。

 親方も高齢になり現場に出なくなったころ、頼んでいた事が出来なくなり、忘れる事が多くなりはじめました。
 ある日、近所の先輩からスーパーで車が盗まれたと、騒いでいたと教えてもらいました。
 車検で代車を乗っていた事を忘れてしまったようです。
 これを機に病院に行き診察を受けたところ、認知症と診断されました。
 車の免許を返納し、デイサービスに通う事になり、今は親方の介護をしながら仕事に励んでおります。
 最初は認知症を理解できてなかった私は、普通ではないのに普通にとらえてしまい、怒ったり、イライラしたりしてしまいました。
 病院の先生に「家族が係わる事で認知の進み具合が変わり、一番の薬になります。」との言葉に今は、「多少はしょうがない」くらいで力を抜いてサポートしています。
 妻にも手助けしてもらい、ますます感謝です。

 

色んな人への感謝と思いが、今の私の家づくりの情熱になっています。

 

プロ意識高い職人との出会い

 

仲間のリフォーム屋さんの新年会で、屋根屋さんと出会い、仕事をお願いしました。

 この屋根屋さんが、屋根工事が終わると屋根に雑巾がけをしている姿を見た時、私は自分の価値観を仕事で体現する職人さんの姿勢に感動しました。

 

それからは、ここまでしてもらえる人こそが一緒に仕事をして行きたい職人さんだと思い、この出会いをキッカケに同じ価値観で仕事に向き合う職人さんを少しずつ集め出し、今ではお客様第一の職人さんに囲まれ仕事をしています。

 私にとって、大切な現場の教えや学びを忘れそうになった時に、いつも振り返らせてくれる現場の師匠的存在です。

 あれから15年がたった今も、変わらず屋根工事で当社を支えて続けてくださっています。